クルーのお仕事 by バックパッカーになれなくてでタグ「客室乗務員訓練」が付けられているもの

サバイバル要素をさらに高めたのが香港での生活。訓練中に滞在してたのが女人街がすぐそばの香港の下町だったため、人は多いし、荒いしで、町を歩けばこれまたサバイバルな空気が流れていました。

また、訓練が月曜日から土曜日まで進む中、日曜日しか休めないのに、訓練後に住む場所を自力で探さなければいけないのも「サバイバル」の要因でした。

会社のハウジング担当部署の人が「クルーはLaguna CityとかScene WayとかWanpoaに多く住んでます。」とか「ここの不動産屋さんだったらクルーは手数料なしで大丈夫なので電話してみて。」と教えてはくれたものの、あとは自分たちでどうにかしなければなりませんでした。

日本の感覚だと、例えば自由が丘の物件を探すのに渋谷の不動産屋さんで探しても特に問題は無いのですが、香港は勝手が違いました。何も分かっていたい私たちは当初、ホテルの近くの不動産店へ行き、「Laguna Cityの部屋ありますか?」と聞いたところ、「うちでは扱っていないからLaguna Cityへ行って」と言われてしまいました。つまり、住みたいエリアに行かないと、そのエリアの不動産は扱わない、というのが香港の不動産事情だったようです。

Laguna Cityってそもそもどこだ?と訳かが分からないながらも何とかMTR(地下鉄)を乗り継いでLam Timという最寄駅までたどり着きました。

下町と違ってこのあたりはきれいなマンションが立ち並び、人もそんなに多くなく、なんだかいい感じ。部屋を見せてもらうとホテルっぽい洗面台やお風呂などがあり、高層階だと香港島がすぐ対岸に見え夜景もきれいそうだし、ということですぐにでも引っ越したくなりました。

ただ家賃はその当時は中国返還前のバブルでまだ高く、5畳と4畳ほどのベッドルームに3畳くらいのキッチン、8畳くらいのリビング・ダイニングルームの2LDKで日本円で23万~25万とかいう家賃でした。

もちろん、部屋をもっと狭くして眺めにもこだわらなければもっと安い物件はあったのですが、どうせ香港に住むなら夜景だよね!、とルームメイトとも話し、当時15000HKドルのフラットに決めてしまいました。うち一人につき6000HKドル程度(当時で10万円程)が会社から家賃補助が出るから、という前提があったから可能な選択でした。

このとき、保証金として2000HKドルほどを払ったら、日本から持っていった所持金(8万円)が底をつきそうになったのであせりました...。やはり新しい土地で部屋を借りることまで考えると8万円じゃ全く余裕がありません!!

訓練開始!

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1997年6月3日、朝の8時過ぎに迎えのバスにのりカイタック空港そばのC社本社へ。いよいよ訓練の開始です。

当時のC社の建物は意外に地味で、冷房がキンキンに効いていて独特のにおいがしました。

まずはマレーシア人とシンガポール人のトレイナーが来て自己紹介を。前者はシニアパーサー、後者はファースト・ビジネスクラスのパーサーでした。それぞれ29歳と28歳という年齢。なぜかその頃はそれ位の人がすごく年を取っているように感じ、「ああ、そんな年なのにこの人たちって若いな」と思いました。

また、同じインダクションにはわたしたち日本人のほかにも香港人女性一人、マレーシア人2人がいました。その頃はマレーシア人=マレーシアオリジナルの人だと思っていたのに、彼らが実は中国系でマレー人ではないことに最初は気づいていませんでした。そのため、やたらと「マレーシアの言葉」を彼らから学ぼうとしたものです。後から、彼らはマレーシアに住む「チャイニーズ」だということが理解できたのですが...。

訓練は全部で8週間、月曜日から土曜日の毎日で朝の9時から5時まで行われました。その内容は大まかに分けると、

1.他人、異文化を持つ人とのコミュニケーション、記憶法(?)、気分を一定のレベルに保って気分よく過ごすには、、といったコミュニケーションスキルに関するもの

2.サービス訓練

3.緊急訓練

という構成でした。

1では最初の頃こそインストラクターも面白くて楽しんでいたものの、だんだん疲れてきて、正直ばかばかしくもなってきました。

例えば、訓練中に皆が眠そうに していると、フィリピン人のインストラクターが「はい、みんな立ち上がって!」 と号令をかけ、なぜか皆で当時流行っていた「マカレナ」を踊る羽目になったり、あるいはフルーツバスケットをすることになったり。「私、大学まで出てこんなところで何をしているのだろう」と疑問に思うことも多々ありました。

また、香港の雨、雨、雨(97年の夏はやたらと雨が多かった。それを世間では「中国に返還されたくないから涙の雨」とも言っていた)の空もあいまって訓練がかなり苦痛になった時期もありました。

ただ、「ばかばかしい」と思いながらも実際のフライトやそして今になって思うと役に立ったことも多いです。

たとえば違う文化背景を持つ人との接し方、という事例のひとつにこんなものがありました。

「あなたはフライトで一緒になったクルーに食事に誘われました。彼女は蛇スープをごちそうすると言います。さて、あなたならどうしますか?」 という質問です。これは「蛇スープ」を飲む習慣の無い自分がいかに「蛇スープ」を飲む習慣を持つ人に対する失礼の無い断り方。あるいは割り切って単純に「よろこんで」といってトライをするか、といったシミュレーションをしたものです。

また、同じジェスチャーでも文化によっては侮辱になるものであることを学んだり、お客さんから「うちの妻は下僕とは口をきかないことにしているから」といわれた時にどう対応するか、とか、乗客に電話番号をしつこく聞かれたらどう交わすか、、、などなど、実際にフライト中に起こりうるケースを想定してロールプレイゲームのようなことを沢山行いました。

また、他人の発言をすぐに結論付けないこと、ということや、他人が意図していることと、自分自身が認識することには常に相違がある、という前提を持つこともトレーニング中に叩き込まれました。

それから自分のテンションをいかに一定に保ち続け、自分の「エネルギーレベル」を高く持つか、ということも教えられました。

訓練中は「なーんだ、こんなの」と思っていたようなことも、フライト中に実際に経験してみると、「訓練で教えられたなぁ」と思い返す事が多かったです。。とはいえ、実際には他人の発言にいらいらしたり、気分にむらが出たり、というのはしょっちゅうで、学んだ事を実践して役立てるまでには至りませんでした。その後2年半で辞めてしまったのでそこまでの境地には至らず終わってしまいました。

ですが、この期間に学んだ「コミュニケーションスキル」は日本に戻ってから仕事をする上で、常に思い返し、使えるものでした。